古事記で発見!日本最古の薬
医薬品に関する研究は18世紀末から
革命的な躍進を遂げ、現在では「老化」という
大きな病と闘うほどのステージに立とうとしています。
しかし、「薬」は最初からこのように、
ひとつの目的に対してピンポイントで働くもの
だったわけではありません。
何事にも“はじまりの物語”がつきものなのです。
医薬品の発祥は紀元前にまでさかのぼります。
人体の構造や、病気の原理、症状に対応する成分を
特定する方法さえなかった時代です。
分子や元素といった概念も存在しなかったころに、
人々は早くも「薬」を見出し、
病人やけが人を治療するという行為を始めていました。
日本でも縄文時代にはすでに「薬」が
使われていたのだとか。
日本最古の薬はどのようなものだったのでしょうか?
日本最古の薬の記述
「古事記」は現存する日本最古の書物であり、
国家として最初の歴史書です。
構成は上、中、下巻の三部構成で、
上巻には神話、中巻には神武天皇から応神天皇までの古事、
下巻には仁徳天皇から推古天皇までの古事が
納められています。
諸家が各々に伝えてきた帝紀や旧辞といった
「歴史書」を、中央集権的に編纂しなおした形です。
薬に関する記述が上巻に登場します。
説話:因幡の白兎
八十柱の兄弟神がオオナムヂの神(大国主命)に
すべての荷物を背負わせ、
稲羽(因幡)のヤガミヒメを妻に
しようと出かけました。
神々が気多の岬にさしかかると
赤裸の兎が伏せっていました。
八十柱の神々は兎に
「海の塩を浴びて山に登り、風に吹かれるとよい」
と教えました。
兎が神々に教わった通りにしたところ、
兎の皮膚はますます痛み、
いよいよ傷だらけになってしまったのでした。
兄弟神に遅れて通りかかった
オオナムヂの神が泣き伏す兎を見つけて
事情を尋ねると、兎はこう言いました。
「淤岐ノ島からこの地に渡るために
海の和邇(わに)の一族をだまして海に並べ、
その上を踏んで渡りました。
陸地に届く手前でだましたことを告げると、
和邇は私をとらえて皮を剥いでしまったのです。
そのため泣き伏せっていると
八十の神々が通りかかり、海の塩を浴びて
風に当たれと教えてくれました。
私は神々のおっしゃる通りにしました。
すると、体中が傷だらけになってしまい、
痛みのあまり伏して泣いていました」
これを聞いたオオナムヂの神は、
兎に正しい治療法を教えました。
「急いで水門に行って真水で身体を洗いなさい。
そこに生えている蒲の花粉をとって
その上で寝れば、必ず元のように治るだろう」
兎がオオナムヂの神の教えの通りにすると、
傷は治り元のように回復しました。
稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)と
呼ばれるこの兎の正体は兎神だったのです。
兎はオオナムヂの神に言いました。
「ヤガミヒメは八十神のだれかではなく
あなたを選ぶでしょう」
そのころ八十神の訪問を受けていた
ヤガミヒメはこのように答えていました。
「私はあなた方のことを聞いておりません。
私はオオナムヂの神に嫁ぎます」
薬草として治療に用いられていた蒲の花粉
大国主命が兎に教えたという
「蒲の花粉」こそ、日本最古の公式な薬の記録です。
蒲の成熟した花粉を乾燥させたものが
生薬「蒲黄(ほおう)」として今でも流通しています。
蒲黄の原材料になる品種は
ガマ科ヒメガマ、ガマ、コガマの3種類です。
これらの花粉にはフラボノイドの一種である
イソラムネチン配糖体が含まれていて、
これが血管収縮、収れん、利尿作用をもたらします。
なお、蒲黄の使用法は外用と内服の二通りありますが、
傷口に塗布する止血剤として活用される
機会のほうが多いようです。
稲羽の素兎が使った蒲の花粉のように、
昔の薬品とは、薬効成分を持つ植物などの素材を
そのまま使うものでした。
経験的に症状を分類し、トライ&エラーを繰り返して
薬用植物との有効な組み合わせを
編み出してきたのです。
科学技術が発展して植物などに含まれる
薬効成分の抽出、分離、分析が可能になった時、
昔ながらの薬は家庭薬へ、特定成分だけを
取り扱う薬は主に医薬品へと分岐していったのでしょう。